今夜、読書椅子の下で、小さな乾いた音がした。雨は窓の向こうで降っていたから、最初は、誰かの靴から砂が落ちたのかと思ったんだ。しおりラテを運び終えた僕が振り返ると、青いベルベットの椅子に座ったお客さまが、膝の上の本を持ち上げていた。足元には、細長い生成りの紙が一枚。拾うためにかがむと、紙の片側だけが、読書灯を受けて白く浮いた。店で用意している、何も書いていない栞だった。上には丸い穴があるけれど、糸はついていない。僕は端をつまんで拾い、ほこりをそっと払った。お客さまは本を閉じたまま、その紙と僕の顔を交互に見て、「また、逃がしてしまいました」と、小さく笑った。
読んでいたのは、茶色の布表紙をした古い翻訳小説だった。僕も好きな一冊で、少し遠回りをする文章が、知らない町の歩幅を教えてくれる。栞が落ちたあとの頁を、一緒に探すことになった。「誰かが、台所へ入ったところまでは覚えているんです」。そう教えてもらって、僕は本の背を支えながら、何枚かずつ頁を送った。同じ台所が何度も出てくる話だから、すぐには見つからない。「鍋は、まだ火にかかっていた?」と尋ねると、お客さまは首をかしげた。それから、窓辺の梨をひとつ動かしていた、と付け足した。そこまで聞いて、僕にも場所がわかった。出来事の大きさより、置き直された果物のほうが、道しるべになることもあるんだね。
見つかった頁へ栞を戻すと、生成りの紙が、古い本の紙色にほとんど溶けてしまった。お客さまは本を少し開き直し、「端を出すと落ちるし、中に入れると見つからなくて」と言った。確かに、短い栞は本の上からほんの少ししか顔を出さない。読書灯を寄せれば見えるけれど、今度は紙に手の影が重なった。僕は一度、栞を挟む深さを変えてみた。でも、閉じた本を傾けると、先がするりと動いてしまう。「……糸をつけてみようか。帰る場所が、指にもわかるように」。そう言ってから、少し大げさな説明だったかな、と思った。お客さまは丸い穴に指先を当てて、「それなら、お願いしたいです」と答えてくれた。
カウンターの引き出しには、予備の栞と、糸をまとめた小さな箱がある。僕が箱を開けると、湊さんが、明るいほうの読書灯を手元へ向けてくれた。事情を話す前に、作業をする場所ができていたんだ。赤茶、薄い緑、それから青みのある灰色。短く切って巻いてある糸を三つ、乾いた盆に並べて、お客さまに見てもらった。選ばれたのは、青灰色だった。「雨に、色があるならこんな感じですね」。僕は窓を見た。ガラスを伝う水そのものは透明で、向こうの暗さや、こちらの灯りが映っているだけだったけれど、その糸を雨色と呼びたい気持ちは、よくわかった。濡れていない雨を、ひとつ持っていられる気がしたから。
糸を二つに折り、輪になったほうを穴へ通す。そこへ両端をくぐらせて、ゆっくり引いた。簡単なことのはずなのに、僕の指は最初の一度だけ、輪を取り落とした。柔らかい糸が、紙の上でほどけたまま丸くなる。お客さまが見ていると思うと、普段なら気にしない一度が、少し長く感じられた。「糸も逃げるんですね」と聞こえて、僕は顔を上げた。責めるような声ではなかったから、僕も笑った。「……そう、かもね。今日は、よく動くものが多いね」。次は紙を机に置き、穴のすぐそばを押さえて通した。結び目をきつくしすぎないよう、少しずつ形を整える。雨音に交じって、糸が紙をこする、かすかな音がした。
結び終わった栞を持ち上げると、糸の両端が、同じ方向へ小さく揺れた。まず僕の手元で、閉じた本の上に糸だけが出る長さを確かめた。長すぎると、持ち上げたときに袖へ絡んでしまう。短すぎると、せっかくつけてもつまみにくい。お客さまにも本を持ってもらい、指を置きやすい長さまで、結び方を調整した。栞は頁を探す目印で、糸は本を持ち上げるためのものではないから、引っ張らずに、触れるだけで確かめてもらった。薄い紙の束から青灰色が少しだけ出ている。それを指で見つけたお客さまは、さっきの梨のある台所を、今度は迷わず開いた。僕はそこでようやく、肩に入っていた力に気づいた。
ラテのカップは、本から離れた小卓の上にあった。泡の栞模様が少し丸くなっていて、お客さまはそれを見てから、一口飲んだ。「今日は、あまり読めていないんです」。本を直してほしかった理由は、栞が落ちることだけではなかったのかもしれない。聞けば、同じ段落へ何度も戻って、そのたびに後ろの頁の厚みを確かめていたそうだ。僕は、続きを急がなくていいよ、と言いかけた。でも、その人が今夜どこまで読みたかったのかを、僕は知らなかった。だから、さっき覚えていた梨のことを話した。「僕は初めて読んだとき、そこを通り過ぎていたよ」。お客さまは少し驚いて、それからもう一度、本へ目を落とした。誰かと比べるための話には、したくなかった。
そのあと僕は、空いた席のカップを下げたり、棚へ戻す本を並べたりしていた。振り子時計が揺れるたび、真鍮の縁に細い光が走る。螺旋階段から届いた足音は、入口の扉が閉じると、雨にまぎれて聞こえなくなった。お客さまのところを通ったとき、さっきの頁はまだ開かれていたけれど、今度は後ろの厚みを測っていなかった。指先が、一行の下で止まっている。僕が見ていることに気づくと、その人は声を出さず、窓辺の何かを動かすような仕草をした。梨のことだとわかって、僕はうなずいた。先へ進んだかどうかを尋ねる代わりに、読書灯の向きを少しだけ直した。紙の端にあった影が退いて、糸の青が、さっきよりよく見えた。
帰り支度を始めたお客さまは、自分で栞を挟み、本を閉じた。今夜読めたのは、そこから数頁だったらしい。でも、椅子から立つ前に二度も頁を確かめていた最初の様子とは、手つきが違っていた。「この糸、次に来るときまで、そのままにしておいてもいいですか」。もちろん、と答えた。店の本はほかの人も開くから、読んだ頁の番号だけは、小さな紙に控えて持って帰ってもらった。栞を挟んだ位置が変わっても、また探せるように。紙をしまうとき、お客さまは「台所から、続きを」と言った。番号より先に場所を覚えているところが、少しその人らしいと思った。僕は茶色の本を受け取り、糸をつぶさないように持って、入口まで見送った。
椅子の下には、もう何も落ちていなかった。忘れ物を確かめてから、僕はその席に少しだけ腰を下ろし、教えてもらった頁を開いた。梨が置き直される、その前後を読んでみる。窓を開けたい人がいて、果物をよける手がある。ただそれだけの動きが、今夜はちゃんと、ひとつの部屋を広くしていた。読み終えて栞を挟むと、雨色の糸が本の外へ残った。僕はずっと、落ちた栞を元へ戻すだけのつもりだったんだ。けれど、一度うまく結べなかったことまで含めて、今夜のことを覚えていそうな気がする。本を書架へ戻す前に、指先で小さな結び目を確かめた。窓の雨は、まだ続いていた。僕も自分の頁へ帰るまで、あと少し、その音を聞いていたかった。
