九月十五日の夜。窓の雨粒を数えるのをやめたところで、螺旋階段から、ゆっくりした足音が聞こえた。最後の電車を見送ってしまったというお客さまは、閉じた傘を両手で持っていた。傘立てを示すと、ようやく片方の手が空いたことに気づいたように、小さく指を開いたんだ。僕は窓に近い青い読書椅子へ案内して、濡れた袖が本に触れないよう、乾いた布を渡した。外ではまだ雨が続いていたけれど、深緑の壁まで届くのは、細かくほどけた音だけだった。「今日は、あまり難しくないものを」。そう言ってから、その人は書架を見上げた。「でも、すぐ終わってしまうのも、少し寂しいですね」。僕は布を畳む手を止めて、もう一度、棚の真ん中を見た。

選んだのは、くすんだ茶色の布表紙をした、古い翻訳小説だった。旅から戻った主人公が、留守のあいだに少し変わった家で暮らし直す話。大きな冒険が始まるまで待つ必要はなくて、鍋の蓋を探したり、庭の木戸を直したりする場面から読める。「言い回しが、今の言葉と少し違うけれど……わからないところは、そのまま通り過ぎてもいいと思う」。僕がそう伝えると、その人は本の厚みを親指と人差し指で確かめた。急いで読まなくてよさそうな厚さです、と返ってきた言葉がおもしろくて、僕は少し笑った。紙の端は柔らかく丸まり、背の布だけが、何度も手のひらで温められたように色を薄くしていた。僕も好きで、何度か開いている一冊だった。

しおりラテを運んで、ほかの卓から空いた器を下げていると、その人が本に顔を近づけたり、遠ざけたりしていた。小さな活字が読みにくいのかな、と思った。でも、声をかけると、指先が止まっていたのは文章の上ではなかった。扉の次にある、一枚の挿絵。食卓と窓、それから何脚かの木の椅子が、細い線で描かれていた。「この手前の椅子、誰かが座っているようにも、空いているようにも見えて」。たしかに、座面のあたりには濃い影があった。僕はすぐ答えかけて、やめた。この絵を、ちゃんと見たことがあっただろうか。筋は覚えているのに、椅子の数さえ思い出せなかった。お客さまの横からのぞいたままでは自分の影が重なるので、卓の反対側へ回った。

ステンドグラスの読書灯は、卓の奥に置かれていた。本を光の届くところへ少し寄せて、僕も反対側からのぞきこんだ。古い綴じ目を押し広げないように、表紙の下へ畳んだ布を入れる。明るくなった紙には、小さな繊維の凹凸まで見えた。人影だと思った黒い部分は、椅子に掛けられた上着の袖だった。袖口の下に、丸い座面の縁が一本、途切れずに続いている。「……空いているみたいだね」。そう言うと、お客さまは息をついて、ラテのカップを持ち上げた。「よかった。ずっとこちらを見ている人がいたら、ちょっと落ち着かなくて」。その声があまりに真剣だったので、僕は笑っていいものか迷って、結局、口元だけで笑った。その人も、カップの向こうで笑っていた。

空席だとわかると、今度は椅子の向きが気になった。ほかの椅子は卓に収まっているのに、その一脚だけ、こちら側へ斜めに引き出されている。床板の線をたどると、入口からそこまで歩いていけるだけの隙間もあった。「帰ってきた人の席でしょうか」。僕は冒頭の数頁をめくって、食事の場面を探した。けれど、椅子を引いた人のことは書いていない。本文には、冷めかけたスープをもう一度温めた、とあるだけだった。僕はその短い一文を、いつもよりゆっくり読んだ。誰が誰を待っていたのか、説明はない。あるのは、鍋を火に戻すために立ち上がった誰かの手間だった。「その席へ座るまでの話、かもしれないね」。言ってみてから、僕は本をお客さまのほうへ向け直した。

そのあと、僕たちは挿絵の中から、暮らしている人の痕跡をひとつずつ見つけた。窓辺の鉢は片方に葉が寄っている。卓の端には、丸い皿が一枚だけ伏せてある。床に落ちているように見えた細いものは、よく見ると、椅子の脚から伸びた傷だった。僕が窓の留め金を指すと、お客さまは絵に触れないぎりぎりのところで、別の線をたどった。「ここの窓、少しだけ開いていますね」。本当にそうだった。雨戸を閉めた部屋の絵だと、僕はずっと思っていたんだ。絵の外から風が入ってくることに気づくと、古い紙の部屋が急に広くなった。読んだ回数の多い僕が案内するつもりだったのに、窓を開けてもらったのは僕のほうだった。何度も見直して、ようやく見つけた蝶番は、針の先ほどの小ささだった。

カウンターへ戻る途中、湊さんが、何か見つかりましたか、と静かに聞いた。「椅子が一脚。ずっと本の中にあったのに、僕は知らなかった」。それだけで伝わるだろうかと思ったけれど、湊さんは洗ったカップを拭きながら、席が見つかってよかったですね、と言った。僕は自分の胸元の、銀の栞型のピンに目を落とした。小さな明かりが縁に引っかかっていた。いつも見ているものでも、光の向きが違うと見慣れない形になる。次に書架の整理をするときは、背表紙の並びだけでなく、開いた本の中の景色も確かめてみようと思った。どんな場所があるか、僕がまだ知らない棚も多い。その前に、布を返しに来たお客さまから受け取って、濡れたところを内側に畳んだ。

窓際では、お客さまが本文を読み始めていた。さっきより背中が椅子に深く預けられて、カップを持たない手は、膝の上で開いている。僕は近くの卓を拭きながら、雨音が少し変わったことに気づいた。窓を打つ粒はまばらになり、軒から落ちる滴だけが、間を置いて聞こえる。振り子時計とその滴は、合いそうで、いつまでも同じ拍子にならなかった。「ここ、声に出して読んでもいいですか」。不意に聞かれて、僕はうなずいた。その人が読んだのは、主人公が食事の前に上着を脱ぐ、短いくだりだった。古風な語尾で少しつまずき、ふたりで一度だけ言い直した。知らない部屋に入るのは難しくても、上着を脱ぐ動作ならわかりますね、と、その人は袖口を軽くつまんだ。

帰り際、その人は白い栞を挟む場所を少し迷って、読み終えた頁に決めた。挿絵のところではないんですね、と僕が言うと、あの部屋にはもう行ける気がするので、と返ってきた。僕は受け取った本を、すぐ書架には戻さず、両手で持っていた。最初に渡したときより重く感じるのは、湿気のせいだけではない……気もするね。「続きも、ここで読めますか」「うん。今夜の続きは、ここに置いておくよ」。その人は傘を手にしてから、空いているもう片方の手で、軽く会釈の代わりをした。階段の足音が遠ざかると、店には器を重ねる音が戻った。僕は椅子の背に手を添えて、もとの位置へ静かに戻した。青い布にできた浅いくぼみは、まだ少しだけ残っていた。

片づけのあと、僕は読書灯のそばで、もう一度あの挿絵を開いた。上着の掛かった椅子。少し開いた窓。伏せられた皿。さっき見つけたものが、ひとつも消えずにそこにあるのを確かめたかったんだと思う。物語の結末を知っていると、途中にある部屋を、通り道にしてしまうことがあるんだね。今夜は、あの食卓の前で足を止められた。僕は指を頁の端に置いたまま、しばらく先へ進まなかった。雨のやんだ窓に、ランプと僕の手元が映っている。閉店の時刻が近づいて、本を閉じるとき、布表紙の角をいつもよりゆっくり撫でた。次にこの本を渡す夜も、あの椅子は同じ向きで待っているだろう。……そう、かもね。棚へ収める前に、栞の白い頭がきちんと出ていることを確かめた。