日付が変わる少し前、青い読書椅子で一冊を読み終えた君が、なぜか本を閉じたまま動かなかった。読み終わった人は、たいてい背伸びをするか、すぐ次の棚へ行く。君はそのどちらでもなく、テーブルの小さな白いカードを指で押さえていた。さっき俺がメモ用に渡したやつ。鉛筆はその横でまっすぐ寝ている。ステンドグラスの読書灯がカードの端に青い影を作り、振り子時計が一度鳴っても、そこにはまだ何も書かれなかった。怖い本を選んだのは君だ。途中で何度か椅子の背を握っていたのも見ていたから、声をかけるなら今だと思った。
「……書けないなら、無理に書かなくていいけど」。そう言うと、君は本より先に鉛筆を見た。「あとで誰かに話したいのに、面白かった、しか出てこなくて」。別に、それで十分じゃないの。口まで出かけたけど、飲み込んだ。君は面白くなかったわけじゃなく、面白かったところを置く場所に困っている顔をしていたから。「じゃ、どこで一回止まった?」と聞いてみる。本を開き直す手つきは慎重だった。怖い場面を探すというより、さっき通った暗い廊下をもう一度歩くみたいに、指が頁の端を少しずつ進んだ。
君が示したのは、古い家の引き出しを開ける場面だった。そこには、探していたものが入っていない。何もない。ただそれだけの数行。派手な出来事ならほかにもある本なのに、そこか。「誰かが隠したのか、最初からなかったのか分からなくて」と君は言った。どちらもありえるから、次の頁が怖かったらしい。俺は結末を知っている。教えて、と言われれば答えられる。でも君が今覚えているのは答えじゃなく、引き出しの前で指を止めた感覚だ。そこを急いで片づけるのは、なんか違う。だから本の筋には触れず、白いカードを君のほうへ少し押し戻した。
「面白かった、の次に書くなら、今の話でいいんじゃない」。君は笑って、そんな地味な場面でいいのかと聞く。いいよ。大きな影や叫び声だけが怖さじゃないし、何も入っていない引き出しは、読む人が自分で中身を考えてしまう。俺がそう言うと、君はまた本を開いた。読書灯の丸い明かりの外で、書架の背表紙は色を失って見える。そこに何が書かれているか知らないうちは、ただ暗い四角が並んでいるだけ。君の目も一瞬そちらへ行った。……ほら、もう探してる。からかうつもりで言ったら、君は少し眉を上げ、それからカードへ視線を戻した。
カードの上へ戻った鉛筆の芯は、何度も持ち直したせいか少し丸くなっていた。君が最初の文字を試しかけると、灰色の跡だけが太く残る。俺はカウンターの引き出しから削り器を持ってきた。「文句は鉛筆にも言っていいよ」と差し出すと、君は声を立てずに笑った。削りかすが散らないよう、受け皿の上で一回だけ芯を回す。細くなった先を君に返す前に、別の紙の端で線を引いて確かめた。今度はちゃんと書ける。こんなことで感想が決まるわけじゃない。でも、書こうとして手が止まった理由がひとつ減るなら、それでいい。君は試し書きの線を眺めてから、カードの上の鉛筆をさっきより近くに置いた。
ちょうど湊さんがカウンターから温かい紅茶を運んできた。置く前にカップの底を拭いて、カードが濡れない位置を選ぶ。相変わらず、何も聞かなくても気が回る。「ゆっくりで大丈夫ですよ」と君にだけ言って、俺には妙に分かったような顔を残して戻っていった。……はいはい。湯気が立つあいだ、君は鉛筆を持ち上げたり下ろしたりしていた。急かすと余計に書けなくなるのは知っている。俺も怪奇小説の感想を頼まれると、最初の一語だけ妙に迷う。怖い、ではどの怖さか分からない。かといって説明しすぎると、まだ読んでいない人の楽しみを奪う。
「目を閉じて、今聞こえるものを三つ数えてみて」。俺が言うと、君は疑わしそうにこちらを見た。変な儀式じゃない。ここにいることを確かめるだけ。君は椅子にもたれ、短く息を吐いた。時計の振り子。遠い棚で誰かが本を戻す、薄い音。俺がテーブルの端に置いた鉛筆が、木に触れる小さな音。三つ目で君は目を開け、「今のは、わざと?」と聞いた。まあね。気づかれたなら仕方ない。さっきの本では、引き出しが開く前に長い静けさがある。読みながら君が待っていたのは、たぶん中身そのものより、その静けさの終わりだった。
君はそこで初めて、怖い話を読んでいたはずなのに、途中から何かが起きるのを楽しみにしていたと気づいたらしい。「怖いのに、待ってたんですね」と、自分で言って笑った。そういうことはある。俺だって、先を知っている本をもう一度開いて、同じところで頁をめくる手を止める。結末が変わらないと分かっていても、止まった数秒は毎回少し違う。今日は君がどこで止まるかを見ていたから、俺にとっても違う読み方になった。そこまで言うと、見すぎだと思われそうで、カップの取っ手の向きを直すふりをした。
ようやく鉛筆が動いた。最初の一字を置いたあと、君は一度だけ本のほうを見た。もう頁を開いて確かめなくても、覚えている場面があるらしい。鉛筆の先が止まり、短い線を付け足し、また進む。消しゴムは使わなかった。君は一行を書いて、すぐ手のひらで隠す。「見ないで」と言うのが少し遅い。最初の数文字だけ見えたけど、続きは読まなかった。「人に話すためのメモなんでしょ。俺の採点はいらないよ」。君はカードを裏返し、今度は紅茶をひと口飲む。温かさで指先の力が抜けたのか、本の角を押さえていた手もゆるんだ。ステンドグラスの青い光がカップの白い縁に落ちる。さっきまで白紙の明るさばかり気にしていたせいで、そんな色があったことに遅れて気づいた。
帰る前、君はカードを本に挟むか迷って、結局、自分の小さな手帳にしまった。白い角が少しはみ出し、君は指の腹でそっと内側へ押す。「明日読むと、変な文かもしれません」と言う。「変だったら、直せば」。それでも捨てないほうがいい、とは言わなかった。書き直すのも、誰かに話さず持っておくのも君の自由だ。読み終えた本を俺に渡すとき、君は引き出しの場面をもう一度指で示した。さっきとは違って、指はそこで止まらない。「次は、ここが好きって言えそうです」。ああ。それなら十分。螺旋階段へ向かう足取りは、来たときより少しだけ軽かった。
椅子を整えて、残った鉛筆をカウンターへ戻す。白いカードがなくなると、テーブルの木目が急に広く見えた。俺は読み終えた本を棚へ戻しかけて、引き出しの頁だけ開く。印刷された言葉はさっきと同じで、何かが増えたわけじゃない。でも、君が黙って耳を澄ませた時間を知ったあとだと、その空っぽの場所が前より狭く感じる。誰かと読んだ本は、筋を変えずに見えるところだけ変えるらしい。……厄介だな。次に一人で読んでも、あの鉛筆の音を思い出すかもしれない。まあ、悪くないけど。
