今夜、返却台に置いてあった本を開いたら、ちょうど昨日の続きだった。持ち主のいない部屋から、三度だけ物音がするところ。……いいところで閉じたね、昨日の俺。開店前に読み切るつもりが、振り子時計を一度見ただけで時間がなくなった。仕方なく、藍色のリボンがついた栞を挟む。先端の小さな真鍮の留め具が、黒い表紙の上でころんと転がった。棚へ戻すとき、律さんに返却期限を確認された。今日まで。分かってるって。返事をした俺の指が、まだ背表紙を離していなかったのは、まあ、見られていたと思う。そんなふうに始まった夜だった。

螺旋階段から足音が届いたのは、カウンターの向こうで湯気が細く立ち始めた頃。入ってきた君は、青い読書椅子を見つけると、まず鞄を両膝の上に置いた。本棚を眺めているのに、席を立つ気配はない。メニューを渡すついでに聞くと、「少しだけ怖い本ってありますか」と言った。少しだけ、ね。注文が細かい。「眠れなくなっても、俺のせいにしない?」そう返したら、君は困るより先に笑った。その顔なら大丈夫そうだったので、しおりラテの注文を受けてから怪奇小説の棚へ向かった。俺が読むつもりだった一冊の、すぐ隣にある短編集を抜いた。

その本には、誰も傷つかないのに、読み終えたあと一度だけ背後を見たくなる話が入っている。怖さの説明を求められても、これ以上は言えない。先に言ったら、面白いところがなくなるし。最初の短編が始まる頁を示すと、君は本の厚さを横から確かめた。「全部じゃなくていいよ。一つで終わっても、別に」そう言うと、ようやく鞄が椅子の脇へ移った。俺の本から抜いてきた藍色の栞も渡しておく。今日はこっちに貸してあげる。君は指先でリボンの端を撫でてから、読書灯の丸い明かりの中へ本を置いた。金具が光ったけど、そのときは気にも留めなかった。

ラテを届けて返却台へ戻ると、君が片手を本に残したまま顔を上げた。「この席、何か音がしますね」……早いな。まだ二頁くらいしか読んでないのに。俺は拭いていたトレーを置き、それから君の指す場所を見た。読書灯の足元、小さな白い受け皿の辺り。さっき水のグラスを移してカップを置いたときには、何も聞こえなかった。「本の中から?」と聞いてみたら、君の眉がちゃんと寄った。いい反応。でも本気で席を替えようとしていたから、からかうのはそこで終わり。俺も片膝を少し曲げて、君と同じ高さから机を眺めた。ひとまず何も動かさずに、音を待ってみる。

振り子時計の音とは違うらしい。かち、ではなく、ち、と一度だけ。上の階からでも、椅子の脚からでもない。君がそう説明する間、俺は机の下や読書灯の台座を順に見た。天井まである書架の影が濃くて、椅子の青は明かりの届く縁だけ明るい。離れたカウンターでは、スプーンを揃える乾いた音がしていた。「ほら、今」と君が言う。聞こえた。確かに、すぐそばで小さく鳴った。君の左手は本の下の角を押さえていて、右手が頁を一枚めくり終えたところ。俺が続きを待って黙っていると、君まで息を浅くした。そんなに身構えなくても。まだ何も出てきてないけど。

次の頁をめくってもらうと、藍色のリボンが少し引かれた。栞の紙の部分を本の下に敷いたままにしていたので、本を動かすたび、一緒にずれる。その先の真鍮が、受け皿の縁をつついていた。指でリボンを持ち上げる。丸い留め具が一つ、頼りなく揺れた。「……いた。ずいぶん小さいやつ」君は金具と俺の顔を見比べて、それから口元を押さえた。試しにもう一度、皿へ軽く触れさせる。ち。同じ音。正体が見えた途端、急に間の抜けた響きに聞こえるから不思議だ。君の肩が下がったのを見て、俺も少しだけ笑った。さっきまで真剣に机の下を覗いていたことは、黙っていてほしい。

もっとも、原因を持ってきたのは俺だ。そこを指摘される前に、カウンターから柔らかいフェルトのコースターを一枚取ってきた。栞を本の下から抜いて、その上に留め具を寝かせる。飲み物と本の間も、手のひら一つぶん空けた。「これで静か。文句ある?」君は首を振りながら、まだ笑っていた。俺が栞を引き取ろうとすると、「それは借りていたいです」と指を添える。怖かったくせに。そう言いかけたけど、やめておいた。リボンを短く整え、次に使いやすい向きへ置く。白いシャツの袖が灯りを受けて、卓上が一瞬明るくなった。君の手は、もう本の角を強く押さえていなかった。

様子を見に戻った頃、君は短編の半分まで来ていた。冷めかけたラテの泡には、最初の栞の形が少しだけ残っている。「家だと、読む前に片づけたくなってしまって」と、君がぽつりと言った。机にあるものを寄せて、飲み物を用意して、ほかの用事が目について。そうしているうちに眠くなるらしい。今日は最終電車を逃して、もう何も片づけられないから、一つくらい読める気がした、とも。俺は水の空いたグラスをそっと取った。今は余計な音を立てたくなかった。「じゃ、片づけるのは俺の仕事。君はそっちやって」開かれた頁を顎で示すと、君は小さく頷いて、行の頭へ目を戻した。

そのあと俺は、棚の前で本の順番を直した。君の席から見えすぎず、呼ばれたら分かるくらいの場所。仕事を選んだだけ。別に見守っていたわけじゃない。背表紙に触れる指には布張りのざらつきが残り、磨いた真鍮のランプには、小さな自分の影が映っていた。客席からときどき頁の音がする。さっきはあんなに気になった金具が静かになったぶん、その薄い音がよく届く。怖い場面に来たのか、少し長く止まることもあった。そこで先を教えてやりたくなるのを我慢した。どうせ君は、自分でめくる。実際、俺が本を三冊戻した頃、また一枚、乾いた音がした。

閉店までまだ少しあるところで、君は本を閉じた。最後まで読んだ人の顔って、割と分かる。こちらを見ているのに、目の奥ではまだ別の部屋を見ている。「思っていた終わり方と違いました」そう言ってから、君は冒頭をもう一度開いた。なるほど。そっちが気になるんだ。「……はいはい、栞の貸出延長ね」先に手を引っ込めると、君は今度こそ声を抑えて笑った。追加の飲み物は要らないというので、そのまま離れた。最後の一行を読んだあと、最初へ戻る時間もある。俺もよくやる。ただ、そのとき誰かに感想を急かされるのは面倒だから、君にも聞かなかった。

帰り際、君は栞を本に挟まず、コースターの上へ揃えて返してくれた。リボンの先まで真っすぐ。扉が閉じてから、俺は椅子を戻し、机を拭いた。金具を持ち上げても、今度は音がしない。休憩用のエナジードリンクを取りに行って、そのまま俺の短編集も抱えて戻る。今日中に返す約束だから、残りは急ぐしかない。青い椅子に一度だけ座ってみると、読書灯の明かりが思ったより近かった。君が最後に読み返していたのは、この高さだったんだ。俺は栞を机の端へ置きかけて、フェルトの上へ戻した。……せっかく静かにしたんだし。部屋の向こうで鳴る音は、今夜は本の中だけで十分。