今夜の怪奇現象は、ずいぶん遠慮がちだった。こん、と一回。それから、忘れた頃にもう一回。誰かを怖がらせるつもりなら、もう少し頑張ればいいのに。……まあ、十分効いてる相手はいたけど。始まりは、最終電車を逃したという客が、螺旋階段を上がってきたこと。扉の前で息を整えてから、そっと真鍮の取っ手を引いた。俺は読みかけの怪奇小説に栞を挟んで、カウンターの内側へ置く。休憩用に冷やしていたエナジードリンクは、まだ開けないでおいた。肩に掛けた鞄を両手で抱え直すのを見て、奥の青い椅子を示した。「そこ、空いてる。荷物も隣にどうぞ」。返事より先に、細い息がひとつ落ちた。

しおりラテを運んだら、その人は書架の端を眺めていた。「怖い話って、途中でやめても大丈夫ですか」。変な聞き方。最後まで読まないと追いかけてくる本でも探してるわけ。「……大丈夫。気になるなら、俺が閉じとくけど」。少し迷ってから笑ったので、赤茶色の薄い一冊を抜いた。古い家で、夜ごと違う部屋の戸が鳴る話。ひどい目に遭う場面は少ない。ただ、音のする方を確かめずにはいられなくなる。説明はそこまでにした。「先に結末、言わないでくださいね」「さっき、途中でやめるって言ってなかった?」。その人は答える代わりに、カップを置く場所を少しずらして、本を開いた。

最初の音がしたのは、ラテの泡に描かれた栞が、半分ほど崩れた頃だった。こん。ページを押さえていた指が止まる。俺は返却された本を抱えたまま、その横を通りかかった。「何か聞こえました?」「時計なら、ずっと鳴ってるけど」。大きな振り子時計は、いつもどおりの間隔で夜を刻んでいた。その人は耳を澄ませ、違います、と声を小さくした。俺も足を止めたけど、それきり何も鳴らない。「本の中からじゃないの」。そう言った瞬間に、また、こん。客が本を閉じかけたので、さすがに口元を手で隠した。今のは俺まで少し驚いた。そこは伝えなくていいと思う。

青いベルベットの背もたれには、ステンドグラスの読書灯から、薄い飴色の光が落ちていた。深緑の壁はその向こうで暗く沈んで、天井近くの本の背は色だけが見える。廊下側の灯りを背にすると、椅子の脚の影がやけに長い。怖い本を読むには、よくできすぎた席。カップの底も、窓の留め金も、指で軽く確かめたけど、さっきとは違う音だった。「席、替える?」「……ここでいいです。何の音か、分かれば」。声は頼りないのに、本を置いた手は動かない。俺は抱えていた本を返却台に置いて戻った。正体を知る方を選ぶなら、少しくらい付き合ってもいい。

まず、カップと受け皿を離してみた。音は鳴った。次にテーブルの脚。ぐらつきはない。客は鞄についた金具を押さえ、俺が見ているのに気づくと、「一応」と言った。「いいんじゃない。容疑者、多い方が退屈しないし」。二人で黙ると、カウンターの向こうで湯気が抜ける音まで届いた。こん。今度はすぐ近く。その人と俺が同時に読書灯を見た。……なるほど。緑と蜂蜜色のガラスの傘の下で、細い真鍮の鎖が、ほんの少し揺れていた。けど、指で止めると鳴らなくなるだけで、離せばまた鳴るとは限らない。もう一回待つ間、その人は読みかけの行に指を置いたまま、息を潜めていた。

俺はエプロンのポケットから、まだ何も書いていない白い栞を一枚出した。鎖と読書灯の支柱の間へ、紙の端をそっと入れる。小さな揺れが指先に伝わった。でも、音はしない。抜くと、少し待ってから、こん。「……犯人、こいつ」。換気の風が棚の脇を抜けて、鎖の先を支柱へ触れさせていたらしい。その人は身を乗り出し、栞を挟んだときと外したときの違いを、もう一度確かめた。「こんなに小さいのに」「夜だからね。暇な耳には、よく聞こえる」。灯りを消さないよう台座ごと少し回し、鎖が支柱に当たらない向きに直した。机に落ちる光も動いたので、本の位置だけは元の明るさに合わせておいた。

正体が分かった途端、その人は声を出さずに笑った。怖がっていた自分を片付けるみたいに、本の角を揃えようとする。「すみません。こんなことで呼び止めて」「別に。本から何か出てくるより、片付けが楽」。そう返すと、今度はちゃんと笑った。笑い終わるまで、俺は栞を指の間で裏返していた。紙には小さなへこみがついただけ。鎖の音が止まった席は、さっきより広く見えた。その人は持ち手に掛けていた指をほどき、椅子の奥へ座り直す。鞄もようやく隣の椅子に置かれた。入ってきたときから、ずっと膝の上にあったんだよね。……腕、疲れたでしょ。

「これ、使っていいですか」。差し出しかけた白い栞を見て、その人が言った。新品もある、と伝えたけど、それがいいらしい。「音を捕まえた栞なので」。俺は紙のへこんだところを親指でなぞった。「お守りにするには、薄いけど」「本には挟みやすいです」。言い返せるようになったなら、もう平気そう。栞を渡して、空いた受け皿をトレーへ移した。その人は続きを開き、さっきまで押さえていた行を見つけた。俺もカウンターに戻って自分の本を開く。けど、どこまで読んだかすぐには思い出せなくて、一段落ぶん戻った。人の読書を手伝って、自分が迷子。あんまり割に合わない仕事だと思う。

しばらくして顔を上げると、客はページの端をつまんだまま止まっていた。また音かと思ったけど、今度は違う。「ここ、開けちゃうんですね。戸を」。俺は頬杖をついたまま頷いた。「君も、音の正体を知りたかったでしょ」「私は一人じゃなかったから」。さらっと言うんだ、そういうこと。返そうとした言葉が少し遅れて、手元のページを意味もなく押さえた。「……主人公にも、給仕がいればよかったね」。その人は笑って、続きを読んだ。俺の方を見ていなくて助かった。妙に静かな気分になって、冷やしてある缶のことを思い出したけど、今ここで開けたら、結構な音がする。休憩はあとでいいか。

閉店までまだ少しある頃、その人は本を持ってカウンターへ来た。全部は読めなかったらしい。白い栞が、後ろ三分の一くらいのところから出ていた。「続き、また読みに来てもいいですか」「……はいはい、貸出延長ね」。本は店で預かることにした。頁の位置を確かめて、取り置きの棚へ収める。「次は、もう少し怖いのでもいいです」「まず、この戸の向こうを見てから言えば」。その人は背表紙へ名残惜しそうに目を向けて、それから扉の方へ歩いた。螺旋階段へ出る前に一度だけ振り返る。「音がしたら、また呼びます」「次は自分でも探して。俺、忙しいし」。片手を上げると、全然信じてない顔で笑われた。

片付けのとき、青い椅子をテーブルへ戻して、読書灯の鎖を確かめた。もう鳴らない。台座の向きを直したせいで、布の届いていなかった細い埃の輪が見えた。そこまで拭いて、乾いた面で真鍮を磨く。思ったより綺麗になって、手を止める場所を少し迷った。俺は取り置いた本の背を指で押し、隣の一冊と高さを揃えた。白い紙の端は、ちゃんとそこにある。次に来たとき、あの人は真っ先に灯りを見るのかな。それとも、もう戸の向こうが気になってるかな。消灯の鎖を引くと、今度は短く、かち、と鳴った。これは俺が鳴らした音。……分かってるのに、ちょっと笑った。暗くなったガラスの傘へ、白いシャツの袖が一瞬だけ映って消えた。