開店前、紅茶の缶を棚へ戻していると、乾いた橙の皮が一片、計量皿に残っていました。指先でつまむと、ほろ苦い香りが白いシャツの袖まで届きます。九月も半ばを過ぎたというのに、螺旋階段を上がってきたときには少し汗ばみました。それでも窓の留め金はもう冷たく、夜のほうは着々と秋の支度をしているようです。私は皮を小さな器に取り分け、書簡集の続きを読む前に、お湯を沸かすことにしました。読みかけの頁では、遠くに暮らす相手へ、庭で採れた果物のことを知らせています。何か特別な知らせがなくても、便りは出せるのですね。そんなことを思いながら、今夜使う茶匙を布で磨いていました。
最終電車が行ってしまった頃、扉の向こうで控えめに鈴が鳴りました。いらした方は、肩から提げた鞄を抱え直し、カウンターの紅茶缶を見て足を止められました。「おかえりなさい。どうぞ、お好きなお席へ」。そうお迎えすると、少しためらってから、こちらでもいいですか、と端の椅子を指さされます。私は読書灯を手元へ寄せ、荷物籠をお出ししました。その方が鞄から取り出したのは、青い蓋の小さな空き缶でした。角は擦れ、側面の紙も剥がれかけています。「これに入っていた紅茶を探しているんです。でも、名前が読めなくなってしまって」。蓋を開けても、茶葉はひとかけらも残っていませんでした。
妹さんと一緒に暮らしていた頃、台所にいつも置いてあった缶なのだそうです。お茶を淹れるのはたいてい妹さんで、ご本人は隣で夕食の野菜を切っていたとのこと。引っ越しの荷物からこの缶が出てきて、久しぶりに飲みたくなったのだと、蓋の縁を撫でながら話してくださいました。「甘いような、果物みたいな香りだった気がします」。私はいくつかの茶葉を思い浮かべましたが、缶の色から中身を決めてしまうことはできません。「同じものを見つけられるとは限りませんが、覚えていらっしゃる香りを、一緒に確かめてみませんか」。頷いてくださったので、まずは乾いた茶葉を、小皿に少しずつ分けました。
花に似た香りのもの、木の実を思わせるもの、それから取り分けておいた橙の皮。その方は小皿を両手で持ち、一つ嗅ぐたびに考えるように首を傾げられました。私は柑橘の香りがする茶葉を選び、試飲用の小さなポットへ入れました。温めておいた器にお湯を注ぐと、明るい香りが立ち上ります。これなら近いのではないかと、少し自信があったのです。けれど、一口召し上がった方の眉は、ゆっくりと寄りました。「おいしいです。でも、こんなに、きちんとした味だったかな」。慌てて褒め直そうとなさったので、私は首を横に振りました。「ありがとうございます。違うと教えていただけると、次を考えられますから」
ポットを下げながら、私は自分が、上手に答えを出すことへ気を取られていたのだと気づきました。香りの名前をいくつ知っていても、その台所でお茶を飲んだのは私ではありません。そこで二杯目を急ぐのをやめ、お水をお持ちしてから尋ねました。「いつも、どんな器で飲んでいらしたのでしょう」。返ってきたのは、縁が厚くて、片方だけ持ち手の大きなマグカップ、という答えでした。二つ並べると高さも違ったそうです。妹さんはいつも長く蒸らしてしまい、苦くなったら牛乳を足していた、と。その話をするとき、初めてお客様の声に笑いが混じりました。空き缶を握っていた指も、いつの間にかほどけていました。
ちょうどそのとき、巡君が洗い終えたカップを運んできました。「湊さん、こっちの大きいの、どこに戻すんすか」。両手の盆には、小さな試飲用の器と、まかないで使う厚手のカップが並んでいます。お客様が、それです、と小さく声を上げられました。もちろん同じ品ではありません。ただ、ぽってりとした丸い持ち手が懐かしかったようです。私は巡君に礼を言い、そのカップを一つ温めました。巡君は事情を聞くと、「じゃあ、今日はこっちが主役っすね」と声をひそめて笑い、残りを棚へ戻してくれました。新しく並べた茶葉の前で考え込んでいた時間が、そのひと言で少しほぐれました。
二杯目には、いつもより素朴な香りの茶葉を選びました。橙の皮はほんのわずかにして、牛乳は別の小さな器へ。濃さを確かめながら、最初の一杯より少し長く待ちます。その間、お客様は書架に目を向け、こんな高い棚の上にも誰かの手紙があるのでしょうか、とおっしゃいました。私はカウンターに伏せていた書簡集をお見せしました。「ええ。こちらには、庭の果物の知らせが届いていますよ」。ステンドグラスを通った灯りが、表紙に細い赤を落としていました。奥の青いベルベットの椅子では、読書中の方が一度だけ姿勢を変えます。振り子時計の音と、茶葉が沈んでいく小さなポット。その二つを交互に気にしながら、私は時間を測りました。
差し出したカップを、お客様は今度は持ち手に指を通して持ち上げられました。まずはそのまま、それから牛乳を少し。一口飲んで、ふっと目を細められます。「近いです。たぶん、さっきよりずっと」。私は嬉しくなりましたが、続く言葉を待ちました。「でも、あのときのほうが、もっと苦かったかもしれません」。そうおっしゃって、お二人の台所ではよくお湯を沸かしたことを忘れていたのだと、笑ってくださいました。私もつられて笑いました。まったく同じ味を目指すなら、ここからさらに濃くするのでしょう。けれど、もう少し足しますかと伺うと、その方はカップを胸元へ寄せて、今日はこれがいいです、と答えられました。
飲み終える前に、便箋を一枚お借りできますか、と頼まれました。私は引き出しから生成りの紙と封筒を出し、書簡集をそっと脇へ寄せました。妹さんに紅茶の名前を聞けばよかったのだと、今になって気づいたそうです。「用事がないと、連絡しづらくて。元気かどうかは、たまに聞いていたんですけど」。ペンを持ったまま迷っていらしたので、私は茶葉の缶を片づけながら席を外しました。戻ったときには紙の上に数行ができていて、その方が一文だけ声に出して教えてくださいました。「あの青い缶、私の荷物に入っていました」。その先の内容は伺わず、私は封筒のそばへ、小さな紙片を置きました。今夜の配合を書いた、忘れ物のないようにするための控えです。
「今度会うときは、私が淹れてみます」。そう言って紙片を便箋と一緒に畳まれたので、橙の皮は入れすぎないほうがお好みの味になりますよ、とだけお伝えしました。封筒はその場で閉じず、帰ってからもう少し書き足すそうです。青い缶の蓋をはめると、最初は斜めになって、かすかな金属の音がしました。私は思わず手を伸ばしかけましたが、その方は慣れた様子で蓋を回し、きちんと閉められました。長く使ってきたものには、持ち主だけが知っている加減があるのですね。鞄に缶をしまい、階段を下りていかれる背中をお見送りしました。扉が閉まったあとにも、カウンターには牛乳を入れた紅茶の、柔らかな匂いが残っていました。
片づけの時間、私は自分のためにも二杯目と同じ紅茶を淹れました。配合帳には茶葉の量を記し、その下へ、厚手のカップ、と小さく書き添えます。今夜、私がお出しできたのは、昔の紅茶そのものではなかったのでしょう。それでも、冷めかけた一杯をおいしそうに飲み干してくださった顔は、はっきりと思い出せます。棚へ戻るまでには、まだ書簡集を数頁読む時間がありそうです。茶匙を洗い、布で拭いていると、最初に取り分けた橙の皮が一片だけ残っていました。小さな蓋つきの器へ移し、明日の茶葉の隣に置きます。次に青い缶を見せていただくとき、あの便りにはどんな返事が届いているのでしょう。カップを持ち上げると、今夜は私の袖からも、少し懐かしい香りがしました。
