今夜、カウンターに置かれたのは、一枚の便箋と、口の開いた封筒でした。螺旋階段を上がっていらしたお客様が、鞄から取り出したものです。九月の半ばになっても、歩いたあとの額には少し汗が残るようで、その方は椅子に座る前に、襟元へそっと風を送りました。私は冷たいおしぼりをお渡しし、紙のためにカウンターの乾いた場所を空けました。「おかえりなさい。続きは、ここからにしましょう」。そうお迎えすると、お客様は便箋を見下ろして、小さく笑われたのです。「それが、まだ始まってもいなくて」。真っ白な紙の右下には、持ち歩く間についたらしい、浅い折れ目がひとつありました。
お話を伺うと、遠くで暮らすご友人へ手紙を書こうと、数日前から文具を鞄に入れていたそうです。今夜も帰り道の途中で書くつもりが、書き出しを考えているうちに最終電車を逃してしまったのだとか。知らせたい大きな出来事があるわけではなく、ふと、あの人の字を見たくなったのだとおっしゃいました。「でも、何も変わっていません、だけでは寂しいでしょう」。お客様は封筒の蓋を開けたり閉じたりしていました。私はすぐに返事をせず、飲み物のお好みを尋ねました。温かく、香りは強すぎないものを。指先が紙を扱うために忙しそうでしたので、カップは少し離れた場所へ置くことにしました。
茶葉の缶を開けると、乾いた葉の甘い香りがしました。今夜は丸みのある味の茶葉を中心にして、軽い香りのものを少しだけ重ねます。配合を決める匙の音に、お客様が顔を上げました。「手紙と同じで、何を混ぜるか迷いませんか」。ええ、迷いますよ、と私は答えました。今日は香りを足しすぎないよう、二杯目の匙を途中で止めたところでしたから。「今の気分を伺えると、ずいぶん助かるんです」。ポットに湯を注ぎ、蓋をすると、しばらくはこちらも待つ時間です。ベストの懐中時計を確かめ、私はお客様の紙から目を外しました。書き始める瞬間を見守られすぎるのも、落ち着かないでしょうからね。
蒸らしている間に、書簡集の棚へ向かいました。天井近くの背表紙は暗がりに溶け、手の届く段だけを真鍮のランプが照らしています。私が選んだのは、布張りの薄い一冊です。立派な挨拶より先に、庭の鉢が風で倒れたことや、繕った袖がまたほつれたことを書いている手紙が収められています。以前、私が気に入って栞を挟んだのは、送り主が台所の瓶の蓋に手を焼いている箇所でした。どんな顔で瓶を抱えたのだろうと想像すると、離れた人の暮らしが急に近くなるのです。本をお持ちしても、読むようには勧めず、「よろしければ、お茶のお供に」と、お手元の邪魔にならない位置に置きました。
お客様は紅茶をひと口飲み、書簡集を数頁めくったところで、声を抑えて笑われました。それから、ご友人も瓶の蓋を開けるのが得意だったと教えてくださいました。自分ではどうしても開かない瓶を渡すと、相手は涼しい顔で開けてしまう。悔しくて、こちらが先に緩めておいたからだと言い張ったこともあるそうです。「この前も開かなくて、思い出したんでした」。私は笑いながら聞いていましたが、そのひと言のあとには、何も添えませんでした。お客様が鞄からペンを出したからです。蓋を外す小さな音がして、便箋の上に手が戻りました。最初の一行を書くまでに、カップから立っていた湯気は、もうずいぶん細くなっていました。
その間、私は読書灯の向きを少し直し、洗い終えた茶器を布巾で拭いていました。ステンドグラスを通った緑の光が、カウンターの端に落ちています。奥の青いベルベットの椅子では、読書中の方が一度だけ足を組み替えました。振り子時計の音と、ペン先が紙をこする音は、同じ速さにはなりません。書く音が止まると、私もつい顔を上げかけましたが、拭いている受け皿へ視線を戻しました。お客様の便箋を満たすことを、いつの間にか私の仕事にしそうになっていたのですね。磨き上げた皿を一枚ずつ重ねているうちに、向こうからまた筆音が聞こえました。そこでようやく、私の肩も少し下がった気がします。
手紙は、便箋の半分を少し越えたところで終わったようでした。お客様はペンの蓋を閉め、紙を折ろうとして、そこで困った顔になりました。持参した封筒に入れるには、すでについている折れ目の位置が合わないのです。試しに重ねると、端がほんの少しはみ出しました。「先に折らなければよかったですね」。私は、便箋が入っていた大きな包み紙を指しました。厚すぎない、生成りの無地の紙です。「そちらが不要でしたら、ひと回り大きな封筒を折ってみましょうか」。お客様が頷いてくださったので、まず手を洗い、よく乾かしました。せっかく書かれた文字に水滴を落とさないよう、茶器の載った盆も、カウンターの反対側へ移します。
私は練習用の白紙を一枚取り、お客様の隣に見本を置きました。便箋に見立てた紙を中央に載せ、左右を重ね、下を折り上げます。「ここは、指一本ぶんほど余裕を残しましょう。取り出すときにつかえませんから」。手を伸ばすと、ベストを渡る真鍮の鎖が、ランプの光を短く返しました。お客様は包み紙の端を揃えようと、何度か指を置き直しています。私の見本も少し斜めだったので、そのままお見せしました。「私のほうが、曲がってしまいましたね」。二人で笑うと、さっきまで慎重だった指が、すっと折り目を押さえました。紙を傷めないよう、爪ではなく指の腹で。静かな店内に、その一筋をなぞる、乾いた柔らかな音がしました。
出来上がった封筒は、左右の重なり方が少し違いました。それでも便箋は無理なく入り、蓋もきちんと届きます。重ねた部分を糊で留め、乾くまでお客様と紅茶の残りを飲みました。冷めた一杯を口にしたお客様が、「さっきより甘い気がします」とおっしゃいました。私も自分のカップで確かめると、熱いうちは気づかなかった香りが残っていました。封は家で宛名を書いてから閉じるそうです。もうひとつ思い出したことを、帰ってから追伸に足したいとも。お帰りの際、その方は封筒を本の間にそっと挟み、今度は折れない位置を確かめて鞄へ収めました。階段を下りる足音が遠ざかるまで、私は扉の真鍮の取っ手に手を添えていました。
片づけに戻ると、カウンターには私が折った見本だけが残っていました。少し傾いた蓋を開くと、中はもちろん空っぽです。捨てようと持ち上げてから思い直し、今夜の紅茶の配合を記した小さな紙を入れました。最後に足そうとしてやめた茶葉のことも、忘れないよう書き添えておきます。お客様には落ち着いてお待ちいただきたいと思っていた私が、一行目の生まれる時をいちばん急いでいたのかもしれません。明日の私は、お湯を注いだら、もう少しゆっくり茶器を温められるでしょうか。書架へ戻る前に、見本の封筒を書簡集の横へ置きました。斜めの折り目に細く灯りが残っています。あの瓶の蓋の話が、いつか遠くの台所で、懐かしい笑い声になるといいですね。
