今夜、カウンターの隅で書簡集を読んでいた方が、栞代わりの便箋をそっと抜き、「返事を書きたいのに、最初の一行が決まりません」と困ったように笑われました。急かしてはいけない夜もあります。私はアッサムに少しだけ橙の皮を合わせ、空いた頁のそばへカップを置きました。甘い香りなら、言葉の扉を強く叩かずに済みますから。
しばらくして、振り子時計が十二時を告げた頃、便箋に短い一行が生まれました。けれど封筒には入れず、その方は「今日はここまで」と本を閉じられたんです。それで十分ですよ、と私は頷きました。手紙も紅茶も、熱いうちに仕上げる必要はありません。冷めてから気づく香りもあります。おかえりなさい。続きを書きたくなった夜は、また同じ席と、少し遅い湯気をご用意しておきますね。
