今夜は開店前から、書架の間で小さな渋滞が起きたっす。返す本を載せた木の台車を押していたら、右の車輪だけが青い敷物の端に乗って、ぴたりと止まったんすよ。勢いをつければ越えられそうだったけど、上の段には薄い本が斜めに積んである。落としたら大変っす。おれは両手で取っ手を支えたまま、前にも後ろにも進めず、冒険小説で橋の真ん中に立ち往生する人みたいになった。真鍮のランプの光が台車の縁に細く乗って、車輪の影だけが大げさに長い。誰も見ていないと思って「ここが難所っすね」とつぶやいたら、背後から「道幅は足りていますよ」と律さんの声がしたっす。
律さんは積んだ本を先に降ろすよう勧めてくれたっす。でも、おれはすぐに「ひと押しで行けるっす!」と言いかけた。早く片づけて、最初のお客さまを迎える準備に戻りたかったんす。取っ手を握り直すと、上の一冊がほんの少し滑った。おれの声もそこで止まったっす。急いでいるのは台車じゃなくて、おれのほうだった。薄い本から順に近くの卓へ移し、棚に戻す順番が分かるよう背の向きをそろえたっす。最後の一冊を置いてから台車の前にしゃがむと、敷物の端が車輪に巻き込まれていた。指で布を平らに伸ばし、空になった台車をそっと引く。今度は、拍子抜けするくらい静かに動いたんすよ。
そのとき卓の上で、一冊だけ背表紙の細い本が横になっているのに気づいたっす。下ろす前は分厚い本に挟まれて、まるで見えなかったものっす。表紙には、灯りを持った人が山道の分かれ目に立つ絵があった。おれの好きな冒険小説だったけど、剣も大きな船も描かれていない。最初の数頁を確かめると、主人公は道を選ぶ前に、そばの小さな宿で靴を乾かしている。なんだかずいぶんのんびりした出発っすね。棚の決まった位置へ戻しかけて、少し考えた。表紙を見せるなら、書架の端の紹介台に一晩だけ置ける。律さんに場所を確認すると、棚の分類を変えなければいいと頷いてくれたっす。
開店してしばらくすると、螺旋階段から一人のお客さまが上がってきたっす。肩にかけた荷物を下ろすなり、大きな振り子時計を見て、「長い話を読む元気はないけれど、本は開きたいんです」と言った。その言葉を聞いて、おれはさっきの薄い一冊を思い出したっす。でも、冒険ものを勧めていいか迷った。おれにとって冒険は、次の場面が待ちきれなくなるもの。疲れた人には、かえって忙しいかもしれない。おれが紹介台をちらっと見ると、お客さまも視線を追った。絵の中の灯りを見て「これ、どこへ行く話ですか」と聞かれたから、結末ではなく最初の場面だけ伝えたっす。「旅の途中で靴を乾かすところから始まるっす。今夜は、そこまででも読めるっすよ」。その方は表紙を指先で一度撫でて、山道の分かれ目で指を止めたっす。おれならまっすぐ先を見てしまうところなのに、指が向いたのは脇に描かれた小さな窓だった。窓の内側にだけ、ランプと同じ色の光がある。おれが気づかなかった絵の片隅を、その方が先に見つけたんす。
お客さまは本を手に取ったけど、すぐには頁を開かなかった。表紙の山道を眺めながら「途中でやめても大丈夫な話なら、読んでみたい」と笑ったっす。その声は階段を上がってきたときより少し軽かった。おれは青いベルベットの椅子へ案内して、ステンドグラスの読書灯を本に合わせて傾けた。ランプの琥珀色とガラスの青が重なって、頁の端に夕方みたいな色が落ちる。飲みものを尋ねると、甘いものがいいとのこと。おれの好きなミルクセーキを勧め、冷たいグラスが本に近づきすぎないよう、小さな丸卓の反対側にコースターを置いたっす。準備を整えたら、あとは物語の邪魔をしないように離れた。
おれは残りの本を棚へ戻しながら、ときどき車輪の止まった場所を見たっす。敷物は平らで、通路にはもう何も引っかかっていない。でも、あそこで立ち止まらなければ、あの薄い本の表紙をちゃんと見なかったかもしれない。見つけた自分を褒めたくなったところで、律さんの「先に降ろしましょう」という声も思い出した。最初におれが力任せに押していたら、本は落ちて、紹介台どころではなかったはずっす。おれは空の台車を通路の奥へ寄せ、取っ手に掛けていた布を畳んだ。背表紙を見せる棚には棚の役目があって、表紙を見せる台には台の役目がある。どちらも、読む人が手を伸ばせるようにする仕事なんすね。
しばらくして椅子のほうから、頁を閉じる軽い音がしたっす。お客さまはグラスを両手で包んで、表紙の絵をもう一度見ていた。「靴、乾きました」と言うから、おれはうっかり「よかったっす! それで旅は?」と前のめりになった。お客さまは笑って、「まだ出ていません。宿の窓から山を見たところです」と教えてくれたっす。しまった、先へ急がせたかもと思って、すぐに謝った。「おれ、冒険の話になると先が知りたくなるんす。でも、窓から見た山もきっと大事っすね」。するとその方は、今夜は山へ向かうより、窓辺に座れた感じがすると言った。冒険の始まりを、出発だけで測らなくていいんすね。
お客さまがミルクセーキを飲む間、店の奥から茶器の触れる音が聞こえたっす。振り子時計は変わらず規則正しく、書架の上のほうにはランプの届かない深緑の影がある。おれは卓を拭き、返却された本を受け取り、新しく来た方の上着を預かった。いつもなら、どの仕事も次の仕事へ駆け出すための一歩みたいに感じる。でも今夜は、椅子にいる方が安心して本を閉じていられるよう、音を立てずにグラスを下げることも大切に思えたっす。閉じた本のそばに残る時間がある。おれはその時間へ割り込まないよう、床を横切るとき少しだけ歩幅を小さくした。
帰る前に、お客さまは本を紹介台へ戻そうとしたっす。おれが受け取ると、「次はあの山道まで行ける気がします」と言ってくれた。貸し出しの約束をしたわけじゃないけど、またここで続きを開けるように、本を元の棚へ戻す位置を一緒に確かめたっす。背表紙は細いけれど、左右の本の高さが違うから見つけやすい。お客さまはそこを指で示し、「覚えました」と笑った。おれも「次のページ、一緒にめくろっす!」と言って見送ったっす。今夜の「次」は、急いで山を越えることじゃない。まず靴を乾かして、窓から行き先を眺める、その先にある一頁なんだと思う。
閉店の支度で台車をもう一度押したとき、車輪は敷物の前をすんなり通ったっす。おれはそこでわざと一度止まり、布の端を指で確かめた。平らで、何も挟まっていない。薄い本も、決めた棚でほかの本と肩を並べている。表紙の絵はもう見えないけど、山道の手前に小さな宿があることを、おれは知っているっす。帰ってから読む自分の冒険小説も、今夜は最初の頁を急いで飛ばさないことにした。足元を見れば、思わぬ一冊に出会えることもある。真鍮のランプを落とす前、空の台車の車輪がつくる丸い影を眺めて、おれは明日の通り道をもう一度確かめたっす。
