今夜の始まりは、青いベルベットの読書椅子の下で聞こえた、かすかな紙の音だったっす。開店前に座面のほこりを払っていたら、靴先に細いものが触れたんすよ。拾うと、深緑の栞。角が一か所だけ白く折れて、真ん中には葉っぱみたいな小さな模様が押してあったっす。おれの胸ポケットには色とりどりの栞が何枚もあるけど、それはどれとも違った。昨日、あの椅子には読みかけの本を抱えた方が長く座っていたっす。立つときに飲みもののグラスを両手で持ち上げて、名残惜しそうに本を閉じた姿を思い出した。昨夜ここで本を読んでいた方の忘れものかもしれない。そう思って、折れた角を指で直しかけたところで手を止めたっす。そこに残った癖まで、持ち主には大事かもしれないっすから。

忘れものを預かる小箱に入れて、今夜の準備を続けたっす。真鍮のランプに明かりがともると、深緑の壁に書架の影が長く伸びる。窓からは外の明かりがかすかに入るだけで、棚の背表紙は読書灯の近くから順に輪郭を取り戻していったっす。振り子時計が一度鳴ったあと、螺旋階段を上がってくる足音が聞こえたっす。おれはいつもどおり元気に「こんばんはっす!」と言ったけど、その方は青い椅子を見て、少しだけ立ち止まったんす。昨日も同じ席にいた方だった。手には分厚い冒険小説が一冊。表紙を胸に抱えるようにして、席に座る前に床へ目を落としたっす。探しものがある顔って、本の中で宝の地図を見失った主人公にちょっと似てるっすね。

「何か落としたっすか」と声をかけたら、その方は「栞を、たぶんここで」と小さく答えたっす。おれは小箱から深緑の一枚を出して、模様と折れた角を見せた。「これっすか?」と聞くと、肩から力が抜けるのが見えたっす。でも、すぐに受け取らず、ちょっと笑って「そんなに大事なものに見えますか」と言うんすよ。おれは正直に「探してる顔を見たら、大事なのは分かるっす」と返した。紙の値段は分からないけど、誰かが探しに戻ってきた理由なら、少しは想像できる。そう言ったら、その方は栞を両手で受け取って、折れた角をそっと親指でなぞったっす。

その方によると、読みかけの本を閉じるのが苦手だったらしいっす。面白いところでやめると、次に開くまで落ち着かない。だから昨夜も、もう少しだけ、あと一章だけ、と読み進めていたんすって。最後の電車が走り去ったあとの店では、急がなくてもいいはずなのに、自分で自分を急かしてしまうことがあるんすね。栞は途中で閉じても続きを見つけられるように、ずっと使ってきたもの。何冊もの本を渡り歩いて、端だけ少し柔らかくなったそうっす。でも帰るとき、うっかり椅子の脇に落としてしまったらしいっす。「続きがどこだったか分からなくなって」と言われて、おれまで一瞬、広い海で方角を見失ったような気分になった。

おれは胸ポケットの栞を一枚、二枚と引き出して「目印なら貸せるっす!」と勢いよく言ったっす。赤は炎みたいで、青は夜の海みたいで、黄色は宝箱の光みたい。勝手に色へ役をつけて並べたら、その方が今度は声を出して笑ったんす。けれど、笑い終わってから「新しい栞じゃなくて、ここまで読んできた印が欲しかったんです」と教えてくれたっす。ああ、そうか。次の頁へ早く進みたいおれには、栞は出発の合図だった。でも、その方には、今日まで進んできた場所を忘れないための、小さな旗でもあったんす。おれは栞を胸ポケットへ戻し、代わりに本を開くための広い場所をテーブルに作ったっす。

二人で前の場面をたどることにしたっす。主人公が橋を渡ったのはどこまでだったか、仲間が持っていた鍵はいつ出てきたか。その方が思い出す言葉をおれが聞いて、目次や章の始まりを一緒に確かめる。思い出した場面の手前で止めて、その方に先の一行を読んでもらったっす。違えば次の章へ、近ければ数頁戻る。迷路の壁をむやみに走らず、曲がり角を一つずつ確かめるみたいだった。おれは冒険小説が大好きだから、つい先を予想してしゃべりそうになったっす。でも、まだ読んでいない展開をこちらが決めつけたら、探している道が見えにくくなる。口をつぐんで頁をめくると、紙が触れ合う音の向こうで、ステンドグラスの読書灯が小さく光っていたっす。時計の針は進んでいるのに、テーブルの上には急がない時間ができたんすよ。

やがて、その方が一行を指さして「あ、ここです」と言ったっす。そこは主人公が扉の前に立ち、開けるかどうかを決める直前だった。おれは本文をのぞき込みすぎないように一歩下がって、「いいところっすね」とだけ言った。その方は栞の折れた角を外へ向け、見つけた頁にそっと挟んだっす。ぱたん、と本が閉じる音がしたけど、さっきまでの困った顔はもうなかった。「今日は、ここで閉じてみます」と言って、椅子の背にもたれたんす。物語の扉を開くのは明日でもいい。閉じた表紙の上に置かれた手が、そう言っているみたいだったっす。

おれはその方にミルクセーキを運んだっす。冷えたグラスをコースターに置くと、細かな泡がランプの光を拾って、星みたいに見えた。「おれ、好きな話だと結末まで一気に走りたくなるんす。でも今日は、途中で休むのも冒険のうちかもしれないって思ったっす」と言うと、その方はストローを持ったままうなずいた。返事を急がせたくなくて、おれも少し黙ったっす。店の奥から茶器の触れる音、窓の外から遠い足音。グラスの表面にできた水滴を拭こうとして、その方がまだ飲んでいる途中なのを見て、布巾をそっと引っ込めた。おれの手も、今夜は少しゆっくり動けるようになったっす。青い椅子のそばには、本を閉じた人が飲みものの甘さをゆっくり確かめる時間が流れていたっす。

帰り際、その方は栞が落ちないよう、本を両手でまっすぐ抱えていたっす。「またあの席で続きを読みます」と言ってくれたから、おれは「次のページ、一緒にめくろっす!」と返した。いつもなら勢いのまま言う言葉が、今夜は少しだけ違って聞こえたんす。一緒にめくるには、相手が本を開きたくなる瞬間を待つこともいる。螺旋階段へ向かう背中を見送りながら、青い椅子のクッションを軽く整えたっす。読書灯の向きを元に戻すと、椅子の中央に丸い明かりが落ちた。次に座る人の本が、ちょうどそこに来るくらいの明るさっす。座面にはもう落としものはなかったけど、誰かが続きを取りに戻ってくる場所なんだと思うと、その空席が妙に頼もしかった。

閉店前、おれは胸ポケットの栞を数え直したっす。赤も青も黄色も、ちゃんとある。今日拾った深緑の一枚だけは、もう小箱にはないっす。折れた角を直さなくてよかった。あの小さな曲がりが、持ち主には歩いてきた道のしるしだったんすね。振り子時計が静かに次の時を告げ、ランプの下の青い椅子は、何も言わずに空いている。おれも読みかけの冒険小説を取り出して、今夜は区切りのいいところで栞を挟むつもりっす。扉の向こうを知る楽しみは、次にここへ来るおれの分として残しておくっす。