今夜のおれ、冒険小説の道案内を引き受けたっす! といっても、目指したのは宝のある島でも、竜の眠る山でもなくて、お客さまが前に読んでいたページなんすよ。最終電車を逃したというその方は、螺旋階段を上がってきたとき、肩にかけた鞄を両手で押さえてたっす。九月も半ばなのに歩くとまだ暑いらしく、額には小さな汗。それでも書架を見たとたん、「ここ、前にも来た気がする」と足を止めたんす。おれが椅子を引くと、座るより先に奥の棚を指さして、「あの辺にあった本、もう一度読めるかな」って。もちろんっす、と返事をしてから、おれもそっちを見たっす。天井まで続く背表紙が、急に森みたいに見えてきたっすよ。
覚えているのは、灰色の表紙、旅に出た主人公、それから川のそばで誰かを待っていた場面。その三つだったっす。「題名も、主人公の名前も忘れちゃって」と申し訳なさそうに笑うから、おれは胸のポケットの栞を一本ずつ指でそろえながら、「場面を覚えてるなら、そこから探せるっす!」って胸を張ったっす。灰色の本ならすぐ見つかる、と思ったんすけど、ランプの下では青い布も緑の布も、くすんだ灰色に見えることがあるんすね。棚から抜いた一冊を光にかざして戻す、その繰り返し。背表紙を順番に追う指が三段目まで来たころには、さっき張った胸が少しだけしぼんでたっす。手がかり三つ、なかなか手ごわいっす。
そこで助けてくれたのが律さんっす。事情を聞くと、銀縁の眼鏡を直して、「川を渡る前でしょうか。渡ったあとでしょうか」と尋ねたんすよ。お客さまは鞄を膝に置いて、少し考えてから、「まだ渡ってない。向こう岸に明かりがあった気がする」と答えたっす。その一言で、おれにも思い当たる本ができたっす! 荷物をなくした旅人が、川沿いの道を歩く話。好きな追いかけっこの場面まで思い出して、つい続きを言いそうになったら、律さんが口元に指を添えたっす。危なかったっすよ。おれの頭ではもう先の町へ走ってたけど、お客さまはまだ川岸にいるんすから。まずは同じ場所に立たなきゃ、と口をきゅっと閉じたっす。
見つかった本は、灰色がかった青い布の表紙だったっす。角が丸くなっていて、持つと指の付け根にちょうど収まる大きさ。お客さまが表紙を撫でた瞬間、「これだ」と小さく言ったから、おれまで肩の力が抜けたっす。けど、栞は挟まっていなくて、肝心の読みかけの場所はまだわからないっす。いつもなら目次から勢いよく探すところを、今夜は横で待ってみたっす。ぱら、ぱらっと紙が鳴って、ときどき手が止まる。そのたびに、おれの指も勝手に動きそうになるんすよ。代わりに注文を聞くと、温かいしおりラテを選んでくれたっす。急いで本を探しているうちに、お迎えの水を出したきりだったことにも気づいたっす。
ラテを運んで戻ると、お客さまは見開きの地図を眺めてたっす。川が大きく曲がって、細い道が森へ入っていく挿絵。文字のページばかり探していたから、おれはそこを見落としてたんすよ。カップは本から離れた小卓へ置いて、呼ばれるまで一歩下がっていたら、「この黒い点、何だと思う?」って声がしたっす。覗いてみると、川岸の木の根元に、爪の先より小さな形があるっす。岩かな、荷物かな。読書灯の向きを少し変えると、細い棒みたいな線が一本浮かんで、それが舟をつなぐ杭だとわかったっす。「渡し舟っす!」。思わず声が弾んで、すぐ小さく言い直したっす。お客さまも口元を押さえながら、同じくらい小さく笑ってたっすよ。
おれ、その地図は何度も見ていたはずなんす。追いかけっこの道順を確かめたくて、丘と橋の位置まで覚えてたっすから。それなのに、舟には一度も気づかなかったっす。お客さまは「舟を待つところで、自分も眠くなったんだった」と、ようやく思い出したみたいだったっす。渡し守が戻るまで、主人公が濡れた靴を乾かす場面。派手な事件が起きる少し前だから、おれは頭の中で通り過ぎてたんすね。指で紙を押さえないように気をつけながら近くの章を開くと、靴の中に詰める草を探すくだりが出てきたっす。「ここ、この草の匂いを想像してた」。そう言う声を聞いて、おれも初めて、その川岸がちょっと湿って感じられたっす。
続きが見つかったお祝いに、胸ポケットから青い栞を差し出したっす。黄色なら明かり、赤なら旅人の焚き火みたいで迷ったけど、今夜は川の色がいいかなって。その栞は先がほんの少しだけ斜めに切れていて、挟むと水面から舟の舳先が出てるみたいになるんすよ。お客さまはすぐには挟まず、地図の横にそっと置いて、「乗り場の目印にしよう」と言ったっす。それから本を膝に移して、ラテをひと口。白い泡の栞模様が少し崩れたところで、ようやく背中が青いベルベットの椅子に預けられたっす。おれは「次のページ、一緒にめくろっす!」と言いかけて、今は一人で読めるほうがうれしいかなと思って、代わりに軽くうなずいたっす。
カウンターに戻ってカップを磨いていると、店の音が順番に耳へ入ってきたっす。布が陶器をこする音、振り子時計の重い往復、それから、椅子のほうで一枚だけ紙が返る音。ステンドグラスの読書灯は、深緑の壁に小さな琥珀色のかけらを落としてたっす。お客さまはときどき地図へ戻って、また本文を読む。そのたびに青い栞が持ち上がるのが、カウンターから少しだけ見えたっすよ。物語が進んだかどうか、聞きに行きたくなる気持ちはあったっす。でも、その手が止まっていないうちは大丈夫。磨き終えたカップの縁にくもりを見つけて、もう一度布を当てたっす。おれにも待っているあいだに、ちゃんとできる仕事があったっすね。
帰り際、お客さまは本を両手で返しながら、「今日はまだ渡らなかった」と言ったっす。聞けば、川岸の章を最初から読み直して、舟が着く直前で閉じたんだそうっす。おれなら先が気になって、もう一ページだけ、を繰り返すところ。でもその方は「次に来る楽しみが、場所ごとわかったから」と笑ってたっす。青い栞は、今度こそ読み終えたところに挟まっていたっすよ。本を棚に戻す前に、同じ本が並ぶあたりまで一緒に歩いて、段の高さも確かめたっす。「また迷ったら頼んでいい?」って聞かれたから、「何回でもっす! ただし、川の向こうの話は内緒にして待ってるっす」と答えたっす。最後のところだけ声を落としたら、律さんが遠くでちょっとだけうなずいたっす。
片づけのあと、まかないのミルクセーキを飲みながら、律さんに今日のことを報告したっす。もちろん、舟を見つけたところは手ぶりつきっすよ。「よく一緒に探せましたね」と言われて、冷たいグラスを持つ指まで熱くなったっす。ほんとは、おれが見つけてもらったものもあるんすけど、それを話すには少し考える時間がほしかったっす。好きな本の中に、知らない小さな舟がまだあったこと。誰かの読みかけを探していたら、おれの読みたい場所も一つ増えたこと。飲み終えたグラスを洗って、布巾を広げたら、もう一度あの棚を見に行くつもりっす。青い栞のある一冊はそのまま休ませて、おれは隣の冒険小説を開くっすよ。今夜は地図の隅っこから、出発してみたいっす。
