今夜は、カウンターで詩集を読んでいたはずなのに、気がついたら同じ行の上を、夢の中でも歩いていたんだ。頬に触れる紙が少しひんやりしていて、もう一度目を閉じかけたところで、「文君、本に寝癖をつけないでください」と律くんの声がした。僕は慌てて顔を上げたけれど、髪のほうは間に合わなくて、白い羽根ペンの髪飾りまで斜めになっていたらしい。窓には夜の色がすっかり落ちて、真鍮のランプだけが丸く映っていたよ。栞を挟もうとして、指先に何か柔らかいものが引っかかった。詩集についている、薄い山吹色の栞紐。その先が、ちいさな箒みたいにほどけていたんだよねぇ。

この詩集は、青い読書椅子のそばの棚から持ってきたものなんだ。何度も開かれた布張りの表紙は、角のところだけ色が浅くなっていて、手で包むとすぐになじむ。栞紐も、途中まではつるりとしているのに、先の二センチほどで細い糸に分かれていた。僕が眠っているあいだに、ここだけ風が吹いたのかなぁ。そんなことを考えて、一本をつまもうとしたら、乾いた指にくっついて、かえって広がってしまった。「あ、ごめんねぇ」と本に謝っているところへ、階段を上がる足音が近づいてきた。僕は紐をそっと表紙の上へ寝かせて、髪飾りを直し、お迎えに向かったんだ。

いらした方は、最終電車に間に合わなかったと、小さく息をついていた。席をご案内するとき、腕時計へ目を落として、それから腕を膝の上にしまったのが見えたよ。「今夜は、途中からでも読めるものがありますか」。そう聞かれて、僕はさっきの詩集を思い浮かべた。一篇ずつ違う窓が開くような本だから、最初から順番に進まなくても、きっと座れる場所がある。「あるよぉ。ちょっと、紐が寝起きみたいになってるんだけどねぇ」。お見せすると、その方は本の中より先に、広がった糸のほうを覗き込んだ。「これ、昔持っていた本もこうなりました」。声の終わりが、入ってきたときより少しだけ丸かった。

僕は新しい紙の栞をお渡ししようと思ったのだけれど、その方は、古い紐も使ってみたいと言ったんだ。読んでいた場所へ戻るとき、いつも同じものが手に触れるのが好きなのだそう。「でも、このままだと、もう少しほどけそうですね」。二人で先端を見つめていたら、糸の一本一本がランプを受けて光った。僕には、それが細い道の集まりに見えたんだよねぇ。律くんに相談すると、紐の付け根が緩んでいないか確かめてから、「先を小さく結んでおきましょう。強く引かないように」と教えてくれた。僕は作業用の白い布をカウンターに広げ、詩集を閉じて、その上に置いた。お客さまも、隣の椅子へ静かに移ってきたよ。

結ぶだけなら、すぐにできると思っていたんだ。ところが、細い紐は僕の指のあいだでくるりと逃げて、輪を作ったつもりが、ただ裏返っただけになってしまう。覗き込むたびに前髪が落ちてきて、息を吹きかけそうになるから、僕は口まできゅっと結んだ。「そんなに真剣な顔でなくても」とお客さまが笑ったので、僕もつられて笑って、せっかくの輪がまたほどけた。困ったなぁ。でも、さっきまで時計を気にしていた方が、今は僕の不器用な指を待ってくれている。そのことが嬉しくて、急ぐ気持ちが少し薄くなった。「今度は、ここに輪を置いてみるねぇ」。布の上で形を整えると、ようやく紐の先が輪の向こうへ顔を出した。

「こちら、押さえていましょうか」。お客さまの指が、表紙の端にそっと添えられた。僕は付け根を引っ張らないように、結び目のすぐ両側を持って、少しずつ輪を小さくした。途中でよじれたところを爪の先で戻すと、ぺたんとしていた山吹色が、細い帯に戻っていく。最後に残ったのは、米粒よりも小さな結び目だったよ。その先には、短い糸がほんの少しだけふさふさと残った。すっかり新品みたいにはならなかったけれど、触れても広がらなくなったのがわかった。「ちいさなしっぽですね」と言われて、僕は急にその形が好きになったんだ。さっきまで直さなくちゃと思っていた場所を、今度は、なくさずにおきたいと思った。

ちょうどそのとき、奥から焼きたてのスコーンの匂いがやってきた。巡くんが、僕たちの休憩用のお皿を運んでくれたんだ。「文さん、冷めないうちに半分こするっす」。僕は手を洗ってから、小さいほうを先に巡くんへ渡した。一口目を頬張った巡くんが、熱さに目を丸くして、それでも嬉しそうにうなずく。僕はその顔を見てから、自分の分をひと口食べたよ。外側がほろりと割れて、中から温かい香りが出てきた。お客さまには、ご注文のしおりラテをお持ちした。カップを置いたとき、泡の上の羽根ペンがかすかに揺れて、僕の髪飾りと向かい合った。それを見たお客さまが、今度は声を出して笑ったんだ。

本を開く場所は、その方に選んでもらった。前のほうでも、後ろのほうでもなく、指が自然に止まったあたり。僕は内容を説明しかけて、やめたんだ。言葉に出会う前に、僕の感想をたくさん置いてしまうのは、今夜は少し違う気がしてねぇ。お客さまが青い椅子へ戻ると、ステンドグラスの読書灯が、袖口へ淡い緑を落とした。棚の高いところには琥珀色の明かりが残り、その下で本の背が静かに並んでいたよ。僕はカウンターの布を畳みながら、ページのめくられる音を聞いていた。さっきの紐に触れているのか、ときどき指が本の下へ伸びる。そのたびに、小さな結び目がちゃんと働いているようで、なんだかほっとした。

しばらくして呼ばれたので伺うと、お客さまはある一行の上に指を浮かせていた。「ここ、明るい景色のはずなのに、少し寂しく感じますね」。僕も隣から読んでみた。窓辺の花を描いた短い詩で、僕はこれまで、やさしい朝の詩だと思っていたんだ。でも、その方は、花のそばに椅子が一脚しかないところが気になったらしい。もう一度読むと、僕にも空いた場所が見えるような気がしたよ。「僕、花ばかり見てたんだねぇ」。そう答えると、その方は「私は、椅子ばかりだったのかも」と笑った。同じページを開いていても、目が休むところは違う。僕はその違いをすぐに詩にしたくなったけれど、まずは、教えてもらった景色をゆっくり眺めていたかった。

帰り際、お客さまは例の紐を、読んでいたページへ慎重に挟んだ。結び目は本の下から少しだけ出ていて、表紙を閉じても指で探せたよ。「次に来たら、ここから読めますか」と聞かれたので、僕は「うん。もし先に誰かが読んでいたら、一緒に探そうねぇ」と答えた。その方はページの数字を自分の小さな手帳に控え、もう一度、結び目を撫でた。螺旋階段を下りる足音を見送ってから、僕は詩集を元の棚へ戻したんだ。急いでいる手には気づかれないくらいの、小さなしっぽ。けれど僕には、棚に並んだどの本よりも、今夜は見つけやすかった。表紙の角を押して高さをそろえると、紐がひと揺れして止まったよ。

片づけのあと、僕は手帳に、紐を結んだときのことを書こうとした。最初は立派な言葉を探してしまって、三行ほど書いたところで眠くなったんだ。律くんに見せたら、「指先のことから書いてみては」と言われたので、そこだけ残して、あとはゆっくり書き直した。布の上で逃げた輪。表紙を押さえてくれた指。結べたあとも残った、ふさふさの先。思い出しているうちに、僕の指も、あの細い手触りを思い出したよ。今夜は、眠る前にもう一度だけ棚を見に行こうかなぁ。続きを待っている紐に、おやすみを言いたくなったんだ。